慶應文学部卒フリーターの迷える子羊ブログ

言葉くらいはカッコつけたい。

人はパンで生きるのではない、言葉で生きるのだ。

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はいどうもこんにちはコウキオグラです。

 

自分探しの旅に出ていたらブログの更新が滞ってしまっていた。

というよりもブログの方向性をずっと模索していたという方が正しいのだろうか。

 

そんなある日とある本を読んでいたら、こんな名言に遭遇した。

 

『人はパンで生きるのではない、言葉で生きるのだ』

 

この一節を見たときに、僕は自分の人生のヒントを感じた。

ここまでの人生、お金遣いはゲキ荒、なのにも関わらず物欲はあまりない。最新のゲーム機や最新の携帯、最新の電化製品に魅力は感じない。旅行に行きたいとも思わないし、テーマパークに行きたいとも思わない。流行の場所や流行の服流行の食事を追っかけたことは生まれてこの方一度もない。特別何かこれが食べてみたいというものもない。ギャンブルも好きではない、競馬は動物園感覚で一時期めちゃくちゃハマったが、その他のギャンブルは一回もやったことがない。お酒も飲まないしタバコも吸わない、くだらない女に興味はない、もちろん男が好きなわけではないし、推し活?のような何かの熱狂的なファンになったことはない、なのにお金はない。お金だけではなく側から見たら、共通言語化した日常しか過ごせない人から見たらなんとつまらない惨めな人生だろう。しかし僕は自信を持って言えるのだが、この人生に何よりも満足しているし、何よりも輝かしい人生だった。明日死んでも後悔することは何一つない。今26歳だが、22歳くらいからずっとそう思っている。

しかしなぜここまでの満足感を得られるのか、自分でもよくわからない。そこで自分が何にお金を使ってきたかを考えてみた。そしたら”今”の刺激に常にお金を使ってきていた。

人生常に刺激を求めている。刺激というのはギリギリヒリヒリ感ということももちろんそうだが、思い出に残ること、自身のインスピレーションが最も働くことを選択してきた。

それはまさしくかけがえのない思い出となるし、他者に依存しない自分だけのオリジナルな思い出になる。簡単に言えば、みんなが行っているから行くなどというような選択をしていない。何かを選ぶとき、それは常に自分の心が勧めてくるものであった。

 

ではその心が勧める、インスピレーションというのはなんなのか。それは自身の言葉に寄与するものである。

僕は言葉にしたいこと、それを思い出にしたいのだ。

物がいらないことや、定型化された空間を求めないのはそれらには独自の感想を抱くことができないからだ。行かないということに独自性が生まれるくらいである。

つまり僕はパンを買っているのではないことに気がついた。僕は言葉を買っているのだ。

 

 

言葉とは心であり、言葉は豊かであればあるほど心は豊かになっていく。

感受性や好奇心、楽観性など全ては僕の言葉の豊富さ、そしてここまで言葉に投資してきた経験が生み出しているもである。

僕は誰よりも運がいい。それは誰よりもポジティブと言える。

僕は自分が大好きだし自分は世界で一番輝いていると思っている。それはお金や地位、名誉など権威性を持つものに由来しているのではない。だからこそ揺るがない自信なのである。

 

そんな僕ができることは周りにポジティブを分け与えること。

 

ネガティブを吸収していき、自身が疲弊していく、しかし周りは元気になる、それが本当に優しい人、のような動画を見たことがあるが、僕はあれに当てはまらない。

 

どんなネガティブも僕といればポジティブが打ち消す。ただし僕といられる人に限る。誰でも彼でも僕といられるわけではない。当然僕と合わない人もいる。来る人拒まず去る人追わずである。

 

僕は世界で一番運がいい。だから僕に関わってくれる人はみんないい人ばかりである。そんないい人たちに何か少しでも役に立ちたいと考えた結果がポジティブを振りまくことである。

 

食べ物だけでは人は生きられない。言葉による心の栄養が必要なのである。

 

僕は言葉を君にあげる。素敵な君に。

 

人はパンで生きるのではない、言葉で生きるのだ。