慶應文学部卒フリーターの迷える子羊ブログ

言葉くらいはカッコつけたい。

コロナ渦で友達を失った同志と友達や思い出を作る機会を失った若者たちへ。

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こんにちは。コウキオグラです。

 

 

 

いきなりのカミングアウトですが、僕は二浪一留の社会のはぐれモノです。地方出身で余計にはぐれ者感が増していました。それでもフラフラして時間を持て余したけど何となく楽しい日々送っていました。最初は慣れない東京の雰囲気にも徐々に馴染んでいきました。

 

 

そんな日々もコロナは変えてしまいました。

 

 

 

僕は2年生のときに留年したのですが、この2度目の2年生の時にコロナが大流行し、オンライン授業を余儀なくされたのでした。その生活といったらもう、地獄も地獄でした。大学時代という人生で最も有意義な時間が、ずっとワンルームで慣れないオンライン講義を受けるだけで過ぎていきました。大学に行って誰かと何となく話す時間の大切さを改めて感じました。

 

でもその時の僕は、この瞬間だけが苦しいだけだと思いきっていました。

 

 

そうこうしているうちに昔の友人知人たちはほとんどが社会人になってしまいました。本当に親友だと思う奴らとは少し会えていましたが、ほとんどの友人知人とは疎遠になってしました。

 

 

 

人と人の縁は共に過ごす時間が減れば減るほどなくなっていきます。

 

 

 

僕は昔の友人を沢山失いました。

めちゃくちゃ寂しいけど、いなくなりました。

 

 

死んだわけではありません。存在しているけど、いなくなったのです。

 

 

コロナのせいにしているだけで、僕も友達たちも進化しているだけかもしれません。進化の速度が違って友達ではいられなくなったかもしれない。何ならコロナがなくてもいずれは切れてしまう縁だったかもしれない。

 

 

でも間違いなく言えることはコロナ渦の期間で失ったことです。空白の日常の中で徐々に消えていきました。

 

 

でも友達は自分のモノじゃありません。それぞれにそれぞれの日々があり、それぞれの道があります。

 

 

そうわかっていても、寂しさと喪失感があります。

 

 

この感情と共に、もう一つの想いがありました。

 

 

僕と同じような虚無感を感じている人は沢山いるのでは無いか?ということです。

 

 

僕は上京して、4年間は普通に東京の街で生活していました。いきたいところがあれば普通に行けるし、罪悪感も何もなかったです。

 

でも上京して、すぐにコロナ渦で過ごすこととなってしまった学生たちは、普通のキャンパスライフを送ることやサークル活動を行うことが出来ていないでしょう。未だに友達ができていない学生も沢山いるだろうし、それどころか大学の同期と会ったこともないという学生もいるかと思います。そうしているうちにもう3年生になってしまった。3年生になって初めてキャンパスに行くという子も多いのでは無いでしょうか。

 

もちろん大学生だけじゃ無いです。僕と同年代の社会人もそうです。リモートワークリモートワークと言われるけど、そんなの一人暮らしの人からしたら非常にきついですよ。お金もらえる刑務所みたいなものですよね。根本的に仕事もやりづらいだろうし、大変でしょう。

 

 

中・高校生もたまったもんじゃないと思います。僕は、昔の友達の喪失感がすごいことからも読み取れるかと思いますが、中・高の友人たちには非常に恵まれていました。僕の人生の楽しい思い出の多くは中・高の生活にあると言っても過言ではありません。

そんな生活がなくなったと考えたら、悲しいどころの騒ぎではありません。でもそのような思い出の場がなかった子たちが沢山いるのです。

 

ここで僕は考えました。

 

都合がいいことに僕は留年したとはいえ、進級要件の講義を落としただけであり、卒業に必要な単位はほとんど取り終えているのです。またここまでは悲しい話ばかりでしたが、「留年」がその悲しみを緩和した面もあります。

 

つまり二浪して留年していなければ生まれなかった、この2022年という一年は運命的な一年だと感じているわけです。

 

 

この運命的な一年を無駄にしてはいけないと強く思っています。

 

 

なくしたものばかりを数えるのではなく、今あってくれる大事なものをより大事にし、同じような悲しみに溢れている同志たちを救う、僕が感じていないもっと大きな悲しみに溢れた後輩たちを救う活動をしようと思います。

 

悲しみを経験して僕はまた一つ強くなった。

 

 

コウキオグラ動きます。

 

 

 

若者たちよ、待っててくれ。